『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十四』

 本第二四冊収録の文書は、東大寺文書(未成巻文書)第1-24(寺領部 雑荘)の336から549までであり、小番号単位も含め若干の調整をすると、二七六点である。

 改めて本シリーズの編纂の原則とその問題点を確認する。翻刻・刊行順番は、現在の整理に従っている。一部、分離文書は復元する方針をとってはいるが、現状の整理状態に規定されている。そのメリットは、遺漏を回避できる点にある。しかし、現状の整理状態が不完全ないし無秩序である場合に、刊行された史料集としては極めて利用しにくいものとなるという大きなデメリットがある。第二二冊から始まった1-24(寺領部 雑荘)および次の1-25(寺領部 雑)は、その分類名から想起されるように、現在の編纂方針のデメリットが顕在化されやすい部分である。そして残念ながら、本冊はそれが現実のものとなっている点は率直に申し述べておきたい。
 本冊収録の文書の目録は、史料編纂所の古文書フルテキストデータベース・日本古文書ユニオンカタログデータベースで見ることができる。データベースでは編年順ソートのため一見わかりにくいが、頁順にソートするならば明らかなように、荘園ごとのグルーピングや、時系列あるいは文書様式での配列などは施されておらず、断片的な文書が雑然と配されている。研究利用に際しては、本冊のみで完結することなく、データベースを利用して、必要な荘園・時期・寺内組織等々での秩序を仮想的に生成した上で、利用するのがベストである。
 その意味では、本冊に限定した内容紹介がどの程度意味があるか、疑問もあろう。しかし、一方で、本冊で取り上げた文書は、整理から漏れた文書=その内容理解が困難な文書であることが少なくない。それは欠損文書や無年号文書であることによる。今回の編纂を通して、年次比定ができたもの、いまだ未翻刻の個別文書として紹介しておくべきものもある。
 ここでは、すでに刊行済みの寺領部の補遺編として仮に位置付けられる部分と、それに収まり切れない部分のふたつに分けて、本冊の紹介の責を果たしたい。なお紙幅の関係で省略するものも少なくない点は断っておく。

〔1-1(伊賀 黒田荘)〕
 対象と判断されるのは二二点である。これらは、近年刊行された『三重県史』によってカバーされている。
 (嘉暦三年〔一三二八)カ)七月二十八日伊賀黒田荘執行僧某申状(二三四〇号)は、従来、平安時代のものと考えられてきたが、関係文書によって修正した。現地荘官である執行のたどたどしいかな書き文書である。
 (正慶元年〔一三三二〕)十一月十六日東大寺西室信聡カ御教書(二一九九号)と(永仁四年〔一二九六〕カ)七月二十二日賀茂別雷神社年預衆書状(二二〇〇号)とは、現在、1-24-388として架蔵されている二紙からなる書状の一部であって、現状の第一紙は二一一九号、第二紙は二二〇〇号の一部である。これまで、全く別の文書を継ぎ合わせひとつの文書としていたために、文意が通じなかったものを、今回正しい原状に復元できた。二一九九号の西室は寺内の有力院家であり、この時、朝廷との交渉役であった。知行国伊賀をめぐって、西室と惣寺とで齟齬が生じており、苦慮する西室の様子が窺える。
 一方二二〇〇号は、木津川による伊賀国東大寺領の年貢運送の押領に関するもので、東大寺から犯人追捕を依頼された領主賀茂別雷社よりの返答である。賀茂側は、自分の領地の人間であっても現在は他領におり追捕はできないと回答している。この地域の悪党取り締まりの困難さを示している。

〔1-3(美濃 大井荘)〕
 対象は六点。『岐阜県史』を補うものもある。
 (正安元年〔一二九九〕頃)十月三日美濃大井荘荘民等申状(二一五六号)は、すでに本シリーズ第一二冊に後半部が収まるが、それに接続することが明らかになった。大井荘の領家である東大寺別当が年貢損免を認めるように、年預五師の口入を求める荘民からの書状である。東大寺惣寺が大井荘への影響力を強める背景を示している。
 なお応安三年(一三七〇)十一月一日僧行勝田地年貢注進状(二二〇八号)は、その華厳会料などの負担費目からみて大井荘内の田地の可能性がある。

〔1-5(周防 周防国衙領)〕
 対象は二三点。『山口県史』を補うものもある。
 周防国衙関連の文書は、その経営の中心であった勧進所方油倉や惣寺方に残る。その経営主体は鎌倉~室町中期は勧進所方油倉、室町後期以降は惣寺方に移行する。それは現在の文書の伝来のあり様にも痕跡を遺す。ちなみに本冊で勧進所方油倉系列の文書は十点である。これらは永村眞『中世東大寺の組織と経営』第四章第二節(塙書房、1989年)ですでに扱われている。なお本冊では、これ以外にも勧進所方油倉系列の文書が多く含まれている(後述)。
 なおこの時期のものと思われる(室町中期)十二月十七日長憲書状(二三四七号)は、周防目代玉音への言及があって、あるいは大内氏の関係者であるかに思われる。
 一方、惣寺に経営が移行した後、戦国時代末期から関係史料が増加するが、自慶長三年(一五九八)三月七日至五月十五日周防国牟礼令年貢并反銭勘文相違問答文書(二一五〇号)は、興味深い複合文書である。全体としては、三つの異なる段階、すなわち周防国衙よりの年貢決算報告、それへの東大寺の意見(現地国衙宛)、さらにそれへの周防国衙からの回答である。現状では糊剥がれによって分散している。上段についてはすでに第一六冊に納めたが今回残りを復元した。西尾知己氏の教示により復元に到った。記して謝したい。周防現地の複数の一族間での対立が窺える史料でもある。

〔1-8(大和 河上荘)〕
 対象は七点。河上荘は東大寺境内の北側に隣接する典型的な膝下型荘園であり、収取単位としての機械的な名編成が取られた。
 本冊では、貞和五年(一三四九)の三点の結解関係文書が注目される(二一七五・二一八三・二一八四号)。それらからは、惣寺が河上荘年貢を質に某所から借銭した、その返済状況、あるいは年貢(「三斗米」)として収納する分の下行配分の確認事項などが窺える。ただし作業用の一時的な資料であり、難解である。今後さらなる検討が俟たれる。

〔1-9(大和 窪荘)〕
 対象者三点。窪荘は三面僧房領であった。鎌倉中後期に預所による年貢対捍問題が数次にわたり発生していた。
 このうち、(嘉元二年〔一三〇四〕)五月三日東大寺三面僧房年預禅忠書状(二二二二号)は、その最後の事案である。三面僧房側は、当時厳罰が下された大和悪党と同じく、預所は遠流とするように、その旨を朝廷に訴えることを年預五師に要求している。

〔1-10(大和 薬園荘)〕
 二点である。暦応二年(一三三九)六月 日大和薬園荘カ百姓等申状案(二二五五号)は、欠損のために荘園名は不明であるものの、鳥見荘との水論が原因であることなど勘案して薬園荘に比定した。百姓側が、東大寺が保管する由緒の文書の存在を知っていることも興味深い。

〔1-11(大和 櫟本荘)〕
 文禄五年(一五九六)十月二日東大寺官家方田地納帳(二二九五号)がある。官家方という組織は天正末から出現するもので、未成巻文書中に二〇点以上関連史料がある。朝廷・幕府・諸奉行・諸大名などへの対外的接待・音信を主に担当した。その財源は大和櫟本荘であった。
 この官家方の文書ではないが、近世における対外交渉のあり様を窺わせるものが、寛文十年(一六七〇)十一月十八日江戸御進物油煙扇子等算用状(二一七六号)である。同年、寺内四聖坊は、二月堂修造許可のお礼のためと、さらなる寺内堂舎修造請願のため江戸にのぼった(薬師院史料ヤ-2-114、記録部141-16)。この文書は、その際の進物(油煙・白布・扇子)と贈答先を書き上げたもの。将軍家綱・老中から、大名・旗本陪臣や奥方、さらには商人まで一四三名を列挙する。

〔1-12架(播磨 大部荘)〕
 対象は六点である。大部荘関連文書は惣寺系列と勧進所油倉系列に分かたれる。後者は室町中期のものが三点ある。『兵庫県史』は大部荘関連文書の多くを採録するが、(宝徳・享徳年間カ)月日未詳播磨大部荘公文方年貢未進注文(二一六五号)と(長禄二年カ〔一四五八〕)二月二十二日播磨大部荘百姓等申状(二三五五号)は脱漏分である。後者は、守護よりの召夫停止のための計略を「御本所」である「油倉侍者」に請願する。直務たる所以である。

〔1-13架(山城 玉井荘)〕
 対象は三点。いずれも玉井荘の荘園名は見えない。石垣荘と円提寺との水論に関するものであるが、天治年間の玉井荘と石垣荘との水論の具書と考えらえる(京都大学文学部所蔵東大寺文書、平安遺文二〇四四号)。

〔1-14架(遠江 蒲御厨)〕
 対象は七点。蒲御厨関連文書は、室町中期の勧進所油倉系列の文書あり、『静岡県史』がほぼ網羅している。
 新たに知見を加えられたもののひとつは、(享徳二年〔一四五三〕頃カ)十一月二十一日遠江蒲御厨政所河井久吉書状封紙(二二九二号)である。本体となる書状本文はすで第二三冊に採録しているが、その書状を取り次いだ人物がその封紙の裏書として一種の副状を書き込んだものである。書状のひとつのあり様を示している。なおこの文書は、洪水による損免に関する史料であり、災害史を考える素材でもある。
 いまひとつは、(享徳二年〔一四五三))十二月二十日遠江蒲御厨東方公文連署書状 (二三五四号)である。後欠文書として、『静岡県史』にはあるが、今回後欠部分を復元した。蒲御厨は東西に荘内が分かれて対立していたことが指摘されており、そのことを改めて確認できる。

〔1-16(筑前 観世音寺)〕
 対象は三点である。康治三年(一一四四)正月十一日筑前観世音寺領大石・山北御封并把岐荘荘司等解(二一六〇号)は、森哲也 「観世音寺文書の基礎的考察」(『九州史学』127、2001年)により、署名部分末尾を復元接続した。大石・山北封にはそれぞれ封司と政所という役職のあったことがわかる。

〔1-17(大和 燈油田并大湯屋田)〕
 対象は一〇点。大湯屋田関連文書は一点で、残りは大仏殿燈油田ないし同業務に関するものである。大仏殿燈油関係の文書は、勧進所油倉系列、燈油聖・楞伽院系列、惣寺系列があって関係は複雑であるが、おおむね燈油聖系列のものと考えられる。
 〔元徳元年(一三二九)〕]十二月二十三日興福寺東門院執事清寛奉書(燈油聖顗応宛)(二二二五号)は、興福寺東院領内の別相伝地について、東大寺大仏殿燈油であることを安堵している。東大寺と興福寺の交渉は、惣寺の年預五師が窓口になることが知られるが、その枠には収まらない燈油聖の自立性が示されている。
 (応永九年〔一四〇二〕九月晦日]楞伽院方?料足算用状(三四五一号)は、欠損により作成者不明であるが、支出項目に、燈油聖の祖である西仰上人の忌日用途と思われる記述のあること、油代の額が四三貫文余と比較的高額であることから、当時、大仏殿燈油業務にあたった楞伽院関連の史料と推測した。
 なお大永元年(一五二一)十月十二日大湯屋納所湯料銭請取状(二三〇五号)は、「燈油方」宛のものであるが、これは惣寺方の燈油納所を指している。

〔1-19(大和 小東荘)〕
 対象二点。なお(永暦元年〔一一六〇〕頃)九月五日僧覚朝書状案(土代)(二二二〇号)を土代とする判断したのは、裏面に文章が及び、一部字句の修正があることから書状正文に相応しくないとの判断したもの。しかしこの文書の宛所は「今小路威儀師」すなわち有名な三綱覚仁であって、かつこの時期の小東荘関連文書には、覚仁宛の書状が複数あることに勘案すると正文の可能性も残っている。

 以上の外に、1-20(摂津 猪名・長洲・杭瀬荘)対象二点、1-22(山城 賀茂荘)対象三点、などが既刊行分の補遺としてある。

 次に、1-24(雑荘)既刊行分(第二二・二三冊)の補遺に当たるものを紹介する。
〔興福寺による造営段米・土打役関連〕
 対象は一五点である。興福寺造営のための大和国内平均の段米・土打役は、約五〇年間に断続的に史料が残っている。建治~正応、正安・嘉元、正和、嘉暦、正慶のものである。同役の免除のための東大寺の懸命な努力を知ることができる。
 弘安六年(一二八三)と正応二年(一二八九)の東大寺衆徒等申状案(二二八九・二二九一号)は、これまで前欠・後欠文書であったものを復元できた。
 (正慶二年〔一三三三〕)四月二十一日尊勝院院勾当覚聖書状(二三三八号)は関連文書から年紀を比定した。これは、鎌倉幕府政所執事であった二階堂道蘊宛である。興福寺よる人夫役を停止するように、興福寺への取り計らいを依頼したものである。注目すべきは、その日付である。その前日、四月二十日は幕府軍による後醍醐方の千早城攻めがあり、大和での幕府の存在感は維持されていたと考えらえるのだが、直後に尊氏の寝返りなどもあり、情勢は一変、五月七日には六波羅が落ちる。この文書は、なお幕府は盤石と認識された時点で書かれたものと言えるだろう。明かに正文と見られるから、幕府側の取り成しを要請するために、一旦は書状を書いて送ったものの、情勢の劇的な変化を受けて途中で使者が持ち帰ったものかもしれない。幕府の滅亡は全く想定外の事態であったのである。

〔光明山寺と摂関家領古川荘との相論〕
 関連文書三点。光明山寺は南山城にあった東大寺末寺である。隣接する古川荘との相論は、前述の段米・土打役問題の正応度と時期が重なる。(正応二年〔一二八九〕)七月十七日光明山寺一和尚頼尊奉書(二二七九号)では、段米・土打役停止要求と対古河荘相論をパッケージとして幕府・朝廷に訴えるようを東大寺に求める。「嗷々の色」がなければ、朝廷も気にかけくれないから、というのがその理由である。交渉事には戦略が必要なのであった。

 次に適宜グルーピングをして紹介する。

〔大和諸荘〕
 対象は四八点と多い。一部は既刊分の補遺に当たるものもある。特徴は半分以上が平安院政期であることで、石名・羽鳥・杜屋・水間・泉木津・安田・長田(他田)・豊井・荏裹などがある。無年号が多く、『平安遺文』未収のものもある。
 新任荘官からと思われる書状がある。久安三年(一一四七)杜屋荘に関する書状(二一九五号)は、現地住人が面会に応じないことを伝え、事態の解決のために東大寺別当からの「御教書」の発給を求めている。永万元年(一一六五)と思われる荏裹荘の書状(二一五二号)は、新たに下司として荘園経営に臨んだ人物が、経済的な権利として給田を要求している。なお末尾には、松茸を入れる容器についての言及がある。この部分の読みは難解であるが、当時の松茸贈答のあり様を復元できるものかもしれない。
 また田地坪付注進が複数ある。これらは新任検注の場合もあったであろうが、相論具書の場合もあって、長寛元年(一一六三)頃の梵福寺の対捍を訴えた際のものはその類である(二二三六・四二・六三号)。
 東大寺文書の史料論的関心からは、これらの平安院政期文書の保管主体≒受取人が問題である。注目したいは、今小路威儀師覚仁宛のものが残っている点で、覚仁のいた僧房に伝来したものが多くを占める可能性もある。今後の課題である。
 田地の売買・寄進の文書もある。自正治元年(一二〇〇)九月十六日至同二年十二月二十二日大和平群郡飽波領七条三里廿一坪田地文書(二一九二号)は六点の連券である。破損が激しいものもあるが、今回復元接続をした。当初は無償の去り渡しの形式であったが、一年余の後に、売却をしている。売券にはその事情を記していない。一方、売却代金の請取状には、今後は同水田にかかっていた興福寺西金堂年貢について、買主側の義務は解除されるとあるから、この点が変更の理由であろうか。

〔弘安徳政の関連〕
 弘安八年(一二八五)八月 日東大寺領諸国顛倒荘園・末寺・封戸等注進状案(土代)(二二九六号)は、三五点からなる。三五ヶ国ごとに荘園・封戸・末寺の興行を、朝廷側に要求したものである。朝廷宛と判断する根拠は、押領者に武士が見えず、公家・寺社とその関係者に限られることによる(遠藤基郎「「筒井寛秀氏所蔵文書」所収の弘安徳政関連文書」『南都仏教』76、1999年)。
 すべてに、書き出し「注進」に合点と「交了」の異筆追記がある。これは、正文を作成し、校正したことの確認であろうか。また端裏書はほとんどないが、「大輔公」「若狭五師」「大輔得業」「書損之間、大輔阿闍梨清書了」が一部あり、これも合点が付いている。おそらく惣寺方の五師集団で、実際に清書を担当した僧侶かもしれない。
 封戸をも興行対象としている点は、「本朝惣国分寺兼和州国分寺東大寺」という文言使用と相まって、時代錯誤の感がない訳ではないが、しかし、自らの由緒をアピールするための意図が籠められていると見るべきであろう。また院政期に成立した寺誌である『東大寺要録』への言及のある点も興味深い。この弘安八年の寺領興行運動の中心は新禅院聖守であり、聖守こそは『東大寺要録』の写本を作成し、かつそれに倣い『東大寺続要録』を編纂した人物だからである(稲葉伸道「中世東大寺における記録と歴史の編纂―『東大寺続要録』について―」、名古屋大学大学院文学研究科『総合テクスト科学研究』Vol.1№2、2003年。横内裕人「『東大寺続要録』と聖守」『東大寺の思想と文化』法蔵館、2018年)。東大寺の復興を支える〈知)として寺誌は機能したのであった。

〔勧進所油倉系列の文書〕
 同系列の文書は、周防国衙・播磨大部荘・遠江蒲御厨に含まれるが、所領以外のどちらかと言えば寺内活動に関わるものが約一五点ある。多くは周防国衙の項で取り上げた永村書で分析が加えられた文書である。いくつか補足しておきたい。
 〔建武二年(一三三五)七月十七日〕油倉点定米出記(二二九九号)は、兵粮米の記述があるが、これは興福寺による襲撃に備えてのものである(『大日本史料』六編二冊四七〇頁他参照)。
 同様に興福寺との紛争に関わるものに、〔貞和五年(一三四九)十月二十日〕油倉銭下行日記(二一六八号)がある。『大日本史料』六編一二冊貞和五年九月六日条によれば、東大寺八幡宮祭礼での喧嘩の報復に、興福寺が東大寺を襲撃する事件が発生した。この文書には、楯・弓の弦・城郭板の外、食材や酒などが見え、迎え撃つ準備の内容が窺える。ちなみ十月十七日に東大寺は敗北してしまう。この注文はその残務処理として作成されたものであった。
 勧進所方油倉は、その名称とは裏腹に燈油業務にはほとんど関与せず、実際には修造業務の組織であった。油倉の名前は見えないものの、嘉元四年(一三〇六)の大垣(二二一一号)、南北朝期~室町中期頃の小入明神(二一七二号)、室町中期の某所(二一九〇号)などの造営関係史料も、油倉関係文書の可能性がある。

〔二月堂加供関連文書〕
 対象は一二点。発給月はいずれも二月であり、二月堂修二会(いわゆるお水取り)に関わるもの。東大寺文書全体を通してここに集中するという特徴がある。三種類に分類される。①永享~応仁の二月堂加供物送状(宛所油倉)、②文明~延徳の二月堂定加供方結解状、③元亀から江戸時代の二月堂加供支配状である。時期的に重なりがないことから同一案件の時期的な変化のようにも思われるが、その内容は、①物品の送状、②二月堂加供のために蓄えられた銭の決算書、③出仕僧への銭・米の配分書、であり、これも重ならない。これらを、二月堂修二会の経営の中でどのように位置付けるべきかは今後の課題である。なお②は、毎年の利息益の記事があり、借銭の原資として運用していたことがわかる。寺内金融を考える素材でもある。

〔その他)
 次の二点は大変興味深い内容ではあるのだが、さらなる探究が必要である。
 (南北朝期頃カ)月日未詳大進殿才々分注文(二二五二号)。内容からみて、大進公に譲渡する北伊賀の荘園所職と奈良の屋敷、武具、茶具足の書き上げと考えられる。武具の多さが目を惹く。手掻少進房などの僧名も見えており、境内の転害門近隣に僧房のあった学侶に関わる可能性が高い。内容・筆跡・料紙などから南北朝期と推定したが、なお後考を俟ちたい。
 応仁三年(一四六九)二月三日某方政所内加具注文(二一九四号)。単に「政所」としかなく、また差出の若井源左衛門なる人物も不明である。可能性としては、東大寺別当政所と荘園政所のふたつがある。室町中期の東大寺文書に見えるのは、後者の荘園政所である。すなわち播磨大部荘と遠江蒲御厨である。いずれかの荘園政所の設備をうかがわせるものではないか。四六品目のうち、半分以上は調理・饗膳関係であり、中には茶桶・茶臼もあり、折敷が大小一五枚ある。寄合の場としての側面を窺わせる。さらに流鏑馬具足として、狩衣・矢・鐙なども見えている。これは荘園の祭礼神事の道具であって、いわば荘園の共有財として政所が管理していたことの証拠となるものだろう。

 以上、散漫な紹介に終始したが、本書の利用の一助となれば幸いである。また重ねての案内にはなるが、『大日本古文書 東大寺文書』は、史料編纂所の古文書フルテキストデータベース・日本古文書ユニオンカタログデータベースを介して利用することで、その研究資源としての効能は発揮される。そのための、データベースの整備にも心がけており、データベースの利用をお願いしたい。なお本冊は、JSPS18H03583による調査成果を反映している。
(例言四頁、目次二一頁、本文三五一頁、花押一覧六葉、本体価格九、〇〇〇円) 担当者 遠藤基郞